SUDAN STORY
スーダンストーリー
スーダンって、
どんな国?
「遠い国」にも、
私たちと同じ“暮らし”がある
アフリカ北東部に位置するスーダン。日本のおよそ5倍の広さを持つ、広大な国です。200以上の民族が暮らし、共通語としてアラビア語が広く使われています。国土の多くは砂漠で、乾燥した大地と広大な空が広がります。一方ナイル川流域には豊かな農地も広がり、古代から多くの文明が花開いた地でもあります。
人口の多くはイスラム教徒で、街には礼拝の呼びかけが響き、人々は家族や隣人とのつながりを大切にしながら暮らしています。
古代文明から続く、多様な文化の交差点
スーダンには、かつて「クシュ王国」と呼ばれる古代文明が栄えていました。国内には200基以上のピラミッドが残されており、その数はエジプトを上回るとも言われています。ナイル川流域をはじめ、各地で古くから交易が行われ、スーダンはアフリカとアラブ世界をつなぐ場所として発展してきました。その歴史の中で、多様な民族や文化、価値観が育まれてきたのです。19世紀には、オスマン帝国の影響下にあったエジプトによる統治を受け、その後、イギリスとエジプトによる共同統治時代を経て、1956年に独立を果たしました。しかし独立後は、政治・民族・宗教など複数の要因が重なり、北部と南部の間で長期的な内戦が続きます。この紛争はアフリカでも特に長期化した内戦となり、2011年には南部が南スーダン共和国として独立しました。
2023年4月、再び戦火の中へ
2023年4月、スーダン国軍(SAF)と準軍事組織「即応支援部隊(RSF)」との武力衝突が発生。戦闘は首都ハルツームを中心に全国へ広がり、多くの市民が避難を余儀なくされました。病院や学校、生活インフラにも大きな被害が及び、今なお厳しい状況が続いています。しかしその中でも、人々は助け合いながら暮らしています。
食料を分け合う人。見知らぬ人を自宅に避難させる人。地域で子どもたちの学びを守ろうとする人。
ニュースではなかなか見えてこない、「懸命に生きる人々」の姿があります。
スーダンを、
“問題”ではなく、
“人”から知ってほしい。
このページでは、
そんなスーダンの人々の物語を紹介していきます。
一人ひとりの人生に触れることで、
遠い国だったスーダンが、
少しだけ近く感じられるかもしれません。
日本語ゼロから
始まった旅
津波の被害を受けた街で、スーダンの少年は泣いた。
悲しみのためではなく、そこに生きる人たちの温かさに触れたから。
その涙が、一人の若者の人生を変えた。
Zeinalabidin Abdelrahman
ゼインアルアブディーン・アブデルラハマン
閖上で、涙した日
THE DAY HE CRIED
2011年の夏、宮城県名取市閖上。東日本大震災の津波が街を変えてから、まだ数カ月しか経っていなかった。瓦礫が撤去されはじめた平地に、22人のスーダン・南スーダンの子どもたちが立っていた。ロシナンテスが「天の川プロジェクト」として招聘した、サッカーアカデミーの子どもたちだ。その中に、一人の少年がいた。ゼインアルアブディーン・アブデルラハマン。みんなは彼を「ゼイン」と呼んだ。
閖上小中学校の子どもたちと一緒に運動会をした。言葉は通じなかった。でも笑顔は通じた。汗をかいて、ぶつかって、笑って。そして大運動会が終わったとき、スーダンの子どもたちはそっと涙を流した。
その涙は悲しみではなかった。計り知れない被害を受けながらも、見知らぬ外国の子どもたちを笑顔で迎えてくれた閖上の人々への、深い感動だった。スーダンに帰国したゼインは、ロシナンテスの川原医師のもとを何度も訪ねてくるようになった。
「日本が大好きになりました。日本で勉強がしたいです」
日本語は一文字も知らなかった。
それでも、その思いは本物だった。
日本語ゼロ、北九州へ
ZERO JAPANESE, TO KITAKYUSHU
川原医師はゼインの言葉を受け止め、動いた。情報を集め、1年以上をかけて準備し、翌2012年、ゼインを北九州市の九州国際大学付属高等学校に受験させることにした。それまでの間、ロシナンテスのスタッフが手分けして日本語を教えた。ゼインは必死に吸収した。
2012年1月24日、合格。
まったく日本語ができない状態から、
わずか数カ月の準備で高校入試に臨み、見事合格を果たした。
サッカーで鍛えた集中力と、あの閖上での体験が後押しした。
北九州での3年間は、
ゼインにとって異文化の中を泳ぎ続けるような日々だったに違いない。
スーダンの食卓は直径1.5メートルもある大皿を家族みんなで囲む文化。
日本の弁当箱の小ささに驚いたかもしれない。
アラビア語と日本語、まったく異なる文字体系の中で、
彼は言葉を身につけていった。
3年間の留学を終え、ゼインはスーダンへ帰国。
ハルツーム大学に進学した。
ハルツームで、
4店舗のオーナーに
OWNER OF FOUR STORES
大学を卒業したゼインが選んだのは、スポーツの世界だった。サッカーアカデミーで育ち、日本でサッカーを続け、帰国後はスーダンオリンピック代表候補にまで名前が挙がったほどの選手が、今度はビジネスマンとしてピッチの外に立った。ハルツームにスポーツ用品店を開業したのだ。
膝の負傷を経験したゼインには、アフリカ最大のリハビリテーションセンターを設立する夢もある。日本の文化から学んだ品質と精度の基準を取り入れた理学療法を提供したい——なぜなら、彼自身が受けたリハビリテーションの誤りが、サッカー選手として復帰し、再びプレーすることを難しくした原因の一つだったからだ。
スーダンの人々にとってサッカーは特別な存在だ。街のいたるところで子どもたちがボールを蹴り、大リーグの試合があれば近所の誰かの家や街角のカフェにみんなが集まって観戦する。そのスポーツ文化を支えるビジネスに、ゼインは情熱を注いだ。
店は1店舗から2店舗、そして4店舗へと拡大した。
サッカーとともに育ち、日本語とともに成長し、
ビジネスとともに花開いた。それが内戦前のゼインの物語だった。
2023年4月15日、
爆撃音
THE SOUND OF BOMBING
2023年4月15日、スーダン軍とRSF(即応支援部隊)の武力衝突がハルツームで始まった。朝、爆撃音が響いた。その日を境に、ゼインが積み上げてきたものが音を立てて崩れていった。
4店舗のスポーツ用品店は破壊された。スーダン国内で避難生活を続けながらも、ゼインは川原医師に連絡を取り続けた。川原医師がスーダンから退避する際には「医者だとわかると連行されてしまうから、絶対に言ってはいけない」とアドバイスを送り、自らが大変な状況にありながらも、外の人々にスーダンの様子を伝え続けた。
内戦から1年が経過した2024年、ゼインはついに国外への避難を決断。ドバイへと渡った。そして同年、久しぶりに日本の地に立った。情勢報告会のために。
「これから」
という言葉を、胸に
日本留学中にゼインが覚えた言葉がある。
「これから」。過去ではなく、前を向く言葉。
日本の高校生活の中で、その言葉のもつ力を彼は肌で感じた。
店は失った。国を追われた。
それでも、ゼインは日本の人々に向かってこう語りかける。
「一人の力は小さくても、同じ願いを持つ人たちが集まれば大きな力になる」と。
ロシナンテスという名前は、
ドン・キホーテに登場する痩せ馬「ロシナンテ」の複数形だ。
ひとりでは無力でも、集まれば何かができる、という思いが込められている。
サッカーアカデミーの少年だったゼインは、今やその「ロシナンテス」の精神を、
誰よりも体現する存在になっている。
閖上の運動会で涙した少年は、今、故郷の外から、
スーダンの「これから」を語り続けている。
Zeinalabidin Abdelrahmanゼインアルアブディーン・アブデルラハマン
スーダン・ハルツーム出身。ロシナンテスのサッカーアカデミー卒業生。2011年の来日を機に日本への関心を深め、2012年から九州国際大学付属高等学校に3年間留学。帰国後、ハルツーム大学を卒業。スポーツ用品店を4店舗まで拡大するも、2023年の内戦勃発により店舗を失い国外避難。現在もスーダンの状況を国際社会に伝え続けている。
