特定非営利活動法人ロシナンテス

活動報告ブログ

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スーダン2009.06.28

女子小学校完成式

完成式典の2日前に、日本から武藤理事(高校ラグビー同期)と海原事務局長(高校ラグビー2期下)がスーダンに到着し、
当日は、サッカー行事を連れ回し、さすがの二人もくたびれ果てた様子であり、ごめんなさいでした。
そして、式典前日に首都のハルツームから、武藤、海原、霜田、三田、丸ちゃん、内藤さんに川原の7名で
ランドクルーザーの上にふとんをはじめとする大荷物を乗せ、ハサバッラ村へと向かいました。
通常では、チェックポイントを何事もなく通過するのですが、さすがにこの車の様子では、止められました。
だって、一見して夜逃げしている集団か、どこかの国を亡命してきた集団のようですから。
本当は、旅行許可証がいるのですが、これは時間的に余裕がなく、提出した段階で飛び出してきており、
実際には許可証が手元にない状態でした。
でも、落ち着きはらって応答し、難なくパスポートのみで通過できました。
それから7時間余り、最後部の2人は、入れ替わりで、その苦(とにかく暑いです)に耐え、
無事にハサバッラ村へ到着しました。
村人の大歓迎を受け、式典が開かれる学校へと向かいます。
もう、夕方だったのですが、準備はこんなものかな、というくらいに進んでいません。
さらに、式典の概要における、こちらの考えを伝えましたいましたが、それが実行させる感じでもありません。
まあ、彼らが主役なので、彼ら流儀にやってもらえれば良いです。
そして、あのときに「日本人はこんなことを言っていたなあ」と思いだしてくれればよいのです。
準備は遅いのですが、「今夜は徹夜だ!」とハサンを中心に、村人たちは気合を入れて式典準備を行っていました。
会場設営とともに、ハサンの家では、明日ふるまう料理を支度していました。
8頭のひつじを屠ったそうです。
それを前日から煮込んでいます。
くだものや飲み物の準備も怠りがないようです。
我々日本人チームは、いつものハサンのゲストハウスでの宿泊ではなく
医療チームの宿舎で寝ることにしました。
小屋の中で寝るのは、暑苦しく思えたので、外にゴザを敷き、その上に布団を並べました。
そして、適当にみんなで横になります。
少し曇り空でしたが、大きく光り輝く流れ星が見られました。
眠りについて、しばらく経った頃、私は目が覚めて、星があまりに綺麗なので
隣に寝ていた武藤くんを起こしました。
すると武藤くんも海原くんも起きており、星空を眺めていました。
数個の流れ星を見ることもできました。
さて、式典当日です。
村人を学校の正門の前に整列させます。
女子学校ですから、女の子を中心に並べます。
少し遅れて、男子児童がきましたので、彼らを後ろに並ばせます。
その後ろが大人たちです。
彼らに、日の丸を持ってもらいます。
今回は、楽団を呼んでいます。
その楽団を正門のまえに並べます。
私は、日本大使がお通りになる道のゴミを最後まで拾い、きれいにすることを心がけていました。
大使と車列を同じにしている岩間さんから連絡があり、大使がもうすぐ到着するとの知らせがありました。
大使に、教育大臣が一緒です。
村の長たちと私とで大使をお連れします。
日の丸が並ぶ中をゆっくりと歩いていきます。
そして、学校の正門前。
群衆を落ち着かせてから、国歌斉唱です。
武藤君を先頭に、日本人が並び、「君が代」を歌いました。
楽団がありましたが、アカペラで行いました。
海原君は、異国の地で歌う「君が代」に涙があふれてきたそうです。
その後、楽団の演奏によるスーダン国歌斉唱です。
そして、学校の正門にあるテープを大使、教育大臣がカットします。
副知事が遅れてくるとのことで、しばし日陰で休憩です。
その間に、日本人スタッフを大使に紹介することができました。
式典では、女子小学校の完成式ですので、女子児童を前面に出すべきとの私の意見があったのですが、
それがうやむやにやり、女子児童は後へとやられていました。
この格闘をしてくれた、三田君や丸ちゃんは大変だったと思います。
御苦労さまでした。
どうしても、こちらの文化では、おとなの前に子供が並ぶのはダメだったのでしょう。
でも、我々の考え方だけでも伝わってくれれば十分です。
その後、副知事が来られ、式典の開始です。
各代表の挨拶やら、子供たちの歌と踊りが続きます。
私は、丸ちゃんがアラビア語で作ってくれた原稿を読みます。
原稿を読むのみでなく、間合いをとり、観衆を惹きつけるのにも心を配りました。
もうちょっと、うまく話すためにもアラビア語の勉強が必要です。
式典自体は2時間くらい続いたのでしょうか。
お客様は、テントの中で日の当たらないように、気を配り、私は炎天下でずっと絶えていました。
幸い、民族衣装のターバンのおかげで、ぶっ倒れずにすみました。
海原君は、この式典の最中に暑さにやられ、さらにそこにあった水を飲んで、腹痛に苦しむという二重苦状態だったようです。
彼は、さらに悲惨な状態になりますが、詳細はまた別に。
内藤さんは精力的に写真撮影を行っています。
さすが、プロの仕事です。
暑さにも負けず、本当に動き回って撮影を行っています。
頭が下がります。
式典を終え、ハサンの家での食事会です。
食事会ののちに、水施設のリハビリを終えていましたので、こちらも視察していただきました。
このすぐ後に、サッカーの試合を考えていたのですが、内藤さんより助言があり、この状態で試合を行うのは
危険であり、夕方に時間を変更しました。
この助言がなかったら、間違いなく海原君は昇天していたかもしれません。
私は、州知事からの茶会のお呼ばれがあったので、大使、教育大臣と行動を共にし、100キロ先の知事官邸に出かけました。
そして、知事、大使との茶会を終え、大使はハルツームへと帰路におつきになりました。
私は、また100キロもどって、村でのサッカー大会に挑みます。
そこで、海原君の地獄がはじまります。
川原尚行