「駅伝のように想いをつなげていく」さださんにとっての社会貢献
さださんにとっての社会貢献
ロシナンテス設立15周年を記念し、シンガー・ソングライター兼小説家として活躍されているさだまさしさんをゲストに迎え、理事長の川原がお話をお伺いする対談企画を実施しました。
長年ロシナンテスを応援してくださっているさださんですが、ご自身でも被災地のボランティアやへき地医療に取り組む人々を支援する「風に立つライオン基金」を設立され、様々な形で社会貢献活動を行っていらっしゃいます。新型コロナの猛威下でも、緊急基金の立ち上げや福祉施設への相談会開催など、迅速な活動で厳しい環境にある方々のために尽力されています。
そんなさだまさしさんに、国際協力や社会貢献への想いや、活動の原点などをお伺いしました。今回はその対談内容を簡単にご紹介します。
アフリカとの出会い
さださんは20歳の時、帰省先の長崎で、のちに楽曲「風に立つライオン」のモデルとなる柴田紘一郎さんと出会いました。アフリカで巡回診療をする人々の存在を初めて知り、マラリアや住血吸虫症と闘いながら活動を行うことに感動したそうです。
「どうしたらアフリカで頑張る人たちの存在を、日本にいるみんなに伝えることができるのか。」その答えが、「歌」でした。
楽曲「風に立つライオン」の誕生秘話
さださんが柴田さんからアフリカの話を聞いてから、実際に歌の制作を始めるまでおおよそ15年かかりました。さださんは、「当時アフリカへ行ったことがなく、自分の中にアフリカがなかった」と語ります。そこで、アフリカに関するドキュメンタリーや映画を見るなどして、熱心にご自身の中にアフリカを取り込もうとします。少しずつアフリカを貯め、さださんの中にアフリカが満ちたのは35歳の時でした。
「歌詞を書き上げるのには、30分もかからなかった。」とさださん。あふれてきた言葉にさださん自身が驚く場面もあったそうです。今や川原をはじめ、海外で活躍する多くの方の応援歌となっています。
さださんにとっての「歌」
阪神淡路大震災が発生した時、物資を送ることしかできなかった経験から、東日本大震災中が発生した際には被災地を訪れます。
「さあ皆元気を出すために歌いましょうと自分からいうことは、格好悪くてできなかった。」と言うさださんですが、関係者に促され、大勢の前で熱唱します。子どもたちは楽しそうに笑い、大人たちが泣く姿を見て、「音楽は無力ではない。大した力はないかもしれないけれども、微力ぐらいはある。」と信じられるようになったそうです。
「風に立つライオン基金」の設立
日本各地で台風が猛威を振るった2012年。大分県もまた台風の被害に見舞われました。当時、北海道でライブを行っていたさださんは、コンサート会場のあった北見市で義援金を集めて、大分県の被災地へ赴きます。そこで、義援金を渡し、歌いました。すると、「お金をもらって、歌まで聴かせてもらって、このまま帰すわけにはいかない」と、地元の人たちが募金運動を始めました。そこでは、渡した義援金以上の金額が集まったそうです。その資金を、2012年に同様に台風の被害にあった和歌山県へ持っていきます。そこでもさださんの歌を聴いた地元の人たちによる募金は、渡した金額より多くなったそうです。
この経験から、「たすき」をつなぐ駅伝のように想いをつなげていく「風に立つライオン基金」がつくられました。その資金は、海外で頑張る日本人の医師、看護師、そして教育者などを支えるために使われています。
さださんは、ご自身で当活動のことを「偽善活動(笑)」と呼んでいます。「何もしてくれない善人より、何かをしてくれる悪人の方が役に立つ。こんなところで頑張っている、という人たちのために、僕たちにできることがある」と強く語られました。
さいごに
「20歳のころから、僕の中では、『風に立つライオン』が鳴っている。僕の音楽人生は『風に立つライオン』一色。」とさださんはおっしゃいます。川原もまた、「この歌に出会えて良かった、死ぬまで胸の中にある」と話します。
歌の完成後、人生で初めてアフリカを訪れたさださん。「そこで見た景色は、心の中にあるアフリカと寸分も違わなかった。ただ1つだけ予想していなかったのが、『風』だった。強すぎない、弱すぎない、サバンナの『風』。」この風を味わったさださんは、「神様ありがとうございます。」と感謝したそうです。
この神様にいただいた歌と思いを、次世代にバトンタッチしていきたいと感じました。