東北への想い、そして現地からのお手紙
東日本大震災から10年が経過します。
東北でお世話になった方々にご挨拶に伺いたいのですが、このような状況の中自粛せざるをえないと考え、東北の方々に気持ちだけでも想いを寄せようと思っています。
東北とのご縁
2011年3月11日、私は一時帰国中で東京に滞在していました。震災の被害で東北が大変な状況になっていると知り、翌日の12日、知人に借りた救急車で仲間と一緒に東北に駆けつけました。いろいろなご縁があり、宮城県名取市閖上の方々が避難する体育館で医療支援を開始しました。
その後、徐々に活動する範囲、内容が発展していき、岩沼市、亘理町、山元町でのがれき撤去作業、閖上の方々がいらっしゃる避難所での各種の心身の健康管理(ラジオ体操の導入、イベント、仕切板設置などの環境整備、子供達へのリクリエーション事業など)を行いました。
また、大きなイベントとして閖上スーダン大運動会を2011年7月に開催しました。我々が支援するのがアフリカにあるスーダンであり、2011年7月に内戦の末に南スーダン共和国がスーダンから分離独立することになっていましたので、スーダンと南スーダン出身の子供たち22名を東北に招待し、子供たちを中心として地域の方々も参加できる運動会にしました。震災からの復興と内戦からの復興を重ね合わせて願うような運動会でした。
また、閖上の方々と一緒になっての地域情報誌「閖上復興便り」の作成、閖上、亘理での教育事業、そして亘理町での仮設住宅に住む方々と一緒に行った農業などの共同作業を行う「健康農業」と幅広く支援活動を行ってきました。ロシナンテスは2016年3月に5年間の支援活動を終え、その後はアフリカへの支援に専念しています。
先月の地震の後、1本のお電話が…
さて、先月東北で大きな地震がありました。このニュースを見ながら大事に至らないことを祈っていましたが、幸いにも犠牲者が一人も出ずに心を落ち着けていました。しばらくして亘理にいらっしゃる健康農業の参加者であった三戸部長三さんから電話がかかってきました。先日の地震で10年前のことを思い出すほどに怖かったこと、さらにマスコミから取材を受けている時に当時を思い出し、たまらない気持ちになってしまって私に電話をかけたとのことでした。10年経過しても、簡単には心の傷は癒えないものです。
震災から10年、三戸部さんには常に挑戦するように励ましてきました。震災以来、海を見るのが怖いという三戸部さんに、「一緒に海を見にいきましょう」と堤防を駆け上がったことがありました。「海を見ることができて、大きな区切りがつきました」と言ってくれた時には私たちも一緒に喜んだものです。唱歌である「故郷」を悲しみのあまり歌うことができなったとも仰っていましたが、我々とともにいるうちに、一緒に「故郷」も歌えるようになりました。そして、初めての海外となるスーダンにもお連れしました。ロシナンテスが企画した唯一のスタディツアーに参加してもらい、スーダンで得意の尺八を演奏してもいました。このように三戸部さんが大きな挑戦を成し遂げる姿を見て、心の底から「生きるって素晴らしい」と感じてきました。
今後もずっと三戸部さんをはじめ東北の方々とのお付き合いは、私の命がある限り、続けていこうと思います。東北は私にとって、第二の故郷のような存在であり、東北の方々に出会って語り合い、「生きるって素晴らしい」ということを感じ続けていきたいからです。
東北のさらなる復興を心よりお祈り申し上げます。
川原尚行
三戸部さんからいただいたお便り
震災から10年です。
この10年を振り返ってみました。
1年目は心身ともにどん底でした。
4月に膀胱がんが見つかりBCG膀胱内注入を8回行い9月に膀胱悪性腫瘍手術(経尿道的手術)で膀胱を温存しました。自宅は全壊で5月に解体をしました。会社の同僚からはこの時期の顔は生気が無く精神的につらいのだろうと思ったそうです。実際その通りでした。2012年3月で退職をしました。どこに家を再建するか悩みに悩みました。用事で亘理町に行ってから仙台市に帰ることに抵抗がありました。やっぱり亘理町に行くのではなく帰るが私の人生だと思い亘理町に再建を家族と相談をして決めました。
2012年9月末、1年6カ月いた仙台の社宅から亘理町の公共ゾーン仮設住宅に入居しました。そして12月に仮設住宅に、こんなチラシが入りました。
NPO法人ロシナンテスとの出会いです。
「食べて!動いて!元気になっちゃ!亘理いちご畑」の参加募集です。
震災で畑の野菜栽培をやめて2年。また野菜つくりができるとすぐに参加を決めました。
無料の健康診断もあり午前中働いて昼ご飯食べて送り迎えもしますとびっくりする内容でした。私にとってロシナンテスの活動は心の復興の大きな力になったことです。メンバーの中には同じ荒浜でも初めてお会いする方もいましたが毎週会って活動をして一緒に昼ご飯を食べる話題は尽きません。そして少しずつ笑顔が戻ってきました。私たちからすると子供や孫の世代のスタッフの皆さんは本当によくお世話をしてくれました。ロッシーハウスを訪れる人々とも今でも交流はあります。一緒に働いて同じ食事をすることが絆を作ってくれました。
多くの人の支援が私たちに復興の力を与えてくれました。誰も見向きをしなかったら私たちは笑顔を取り戻すことはなかったと思います。私たちの力ではここまで立ち直れませんでした。でもまだ震災の心の傷は癒えていないです。
ロシナンテスの活動で忘れられないのがスーダンへのスタデイツアーです。
ハルツーム大学での「無東西」のお披露目で被災した中学生が「えんころ節」を歌うので尺八で伴奏しませんかとのお誘いでした。震災で世界中から多くの支援を頂いたので、そのお礼をしたいし、負けない姿をみてほしい、日本文化の紹介できる、川原先生の活動をこの目で見られる、スーダンを知りたいと大きな期待で一杯でした。アフリカの大地は雄大で期待道理の旅でした。スーダンのとりこになりました。オルワン村での歓迎の食事と交流会、村長宅への訪問ですが川原先生は移動許可が認められず不参加、国の事情でしょうが日本では考えられないことでした、メロエのピラミッド、遺跡の訪問、砂漠の景色、病院訪問、ナイル川クルージング、ハルツーム大学での「無東西」のお披露目、日本語学校の生徒さんとの交流会と盛沢山でした。スーダンの人は本当に親切でやさしかったのが印象に残りました。医療体制は日本とは違いました。震災の時、全国から医療の多くの医療関係者の方から応援頂き大変お世話になりました。お陰様で病気の予防、感染も最小に抑えられました。私たちは恵まれた環境で生活をいることに感謝、感謝です。日本と違う文化を知る機会を頂き最高の旅となりました。
帰国後、同行したメンバーも4名ロシナンテス東北事業部を訪れました。他の2名もその後何回か亘理町を訪れて復興の様子を案内して交流が続いています。スタデイツワーだからこその帰国後の交流です。
実はこの時68歳で初の海外旅行でした。一生海外に行くことはないと思い過ごしていました。震災と尺八を勉強していたことがキイワードでした。
尺八は震災で我が家のガレキの中を3月末に3回目の捜索で泥だらけの状態で発見をしました。ママレモンで洗い新聞紙を巻いて土のう袋に入れて乾燥させて音が出るようになりました。私にとって希望の光、音でした。これをきっかけに小さい事ですが一つでも前に進もうと思うようになりました。尺八を勉強して本当に助けられました。
震災で訪れた人、特に若い人には何でもいいから趣味をもってほしいとこの話をしています。
2017年から毎年3月11日に、この尺八で荒浜の鎮魂の碑の前で犠牲者に「江差追分」の献奏をしています。3月11日はありませんが亘理の海、名取、岩沼の慰霊碑、避難の丘でも献奏しています。
震災10年でメディアでは震災を忘れないようにと震災関連の報道がされています。
2月13日の震災の余震で亘理町も震度6弱に見舞われました。20日山元町坂元の被害報道をテレビで見ていたら、突然とめどなく涙が溢れてしまい止まらなくなりました。そして16日に川原先生からメールを頂いたことを思い出し思わず電話をしました。電話をしたことで落ち着きました。本当にびっくりしました。初めての経験です。震災がフラッシュバックしたようです。思えば震災当時は悲しい、悔しい、虚脱感とかがいっぱいあったはずなのに涙を流した記憶はありません。ただ食事できることが嬉しいだけで感情が無い生活をしていたように思えます。今でも頭の中身の半分は震災のことで埋まっています。しかし家内は半分以上だと話しています。家内は今でも荒浜の海を見ることが無いし、震災関連の報道もほとんど見ることはありません。
23日現在、体に感じる地震は今でも続けています。精神的に悪いです。
復興期の亘理町は国の復興予算なのでいろいろな制約がありますが、もう少し被災住民の意見も聞いても良かったのではないでしょうかとの思いがあります。箱ものは目立ちますが震災前以上の物もあるような気がします。維持管理費のことも考えなくてはいけないと思っています。
荒浜地区では人口減少が大きな問題です。
最近、荒浜でも売地の看板が目立つようになりました。実は我が家の土地も看板が立っています。10年を迎え苦渋の決断をしました。まだ本籍を残しています。お迎えは来た時、荒浜に住んでいたと証を残したくそのままにしています。その後は子供たちに任せようと思います。
荒浜地区の子供の減少は深刻で特例で他地区の生徒の受け入れもしています。震災復興時に学区の見直しも視野に入れることはできなかったのでしょうか。
これからの被災地はーーー。
私は被災地を離れました。今、もとの町内会の人と会うと話が続きません。知人の消息が多いです。苦痛とまではいきませんが話題がないのです。10年は短いと思いますが長く感じることもあります。
復興とは?と聞かれたとき私は今住んでいる場所で、私の存在感が認められることだとお話をします。そこは被災者の私ではありません。
3年位前に「いつまで被災者支援なんだろうね」と私にお話をしていた知り合いがいました。私が被災者だと認識していると思っていましたがショックでした。
これからどう震災と向き合うのか、防災対策を考えれば経験を発信しなければとならないし、伝える立場ですが機会が少なくなっています。今でもどこかで震災は起きています。
10年は区切りでではありません。生きている限り毎日が通過点でしかありません。お墓に入りご先祖様と両親に震災の話をしたら、私の震災が終了すると思います。
三戸部長三