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スーダン2016.07.26

日本・スーダン交流事業 古賀翔馬君

いつも、ロシナンテスを応援して下さり、ありがとうございます。

今日は昨日に引き続いて、3月にスーダンに来られた方の紹介をします。
古賀君は、小倉高校を卒業し、浪人中に会いました。
予備校の帰りに、中華の店で晩飯を一緒に食べたのが、最初の出会いです。
その後、九大医学部に進学し、高校時代に吹奏楽部に所属していたのに、大学ではラグビー部に入るという暴挙を行ってくれました。

東日本大震災後の支援では、古賀君が代表を務めた「このゆび」とロシナンテスとの協働事業を行いま、また、この4月には古賀君が赴任する熊本日赤病院や熊本大学医学部・薬学部にも一緒に行きました。初仕事は、熊本での緊急医療活動だったようです。

さて、以下に古賀君のスーダン滞在記を掲載いたします。

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「『何か』を求めて」

「スーダンには日本のように何でもあるわけではありません。ただ、日本にはない『何か』があるんです。

8年前、小倉高等学校の講堂。
壇上で話す、ガタイが良く口髭の豊かなそのOBの発した言葉が私の心に刻まれたことをはっきりと覚えている。刻まれた理由は明確だ。意味が分からなかったから、である。ほんの18年かそこらを日本という狭い国で生きてきただけの高校生には、いくら考えてもその『何か』が何なのか、到底分からなかった。
それでも知りたいと思い、行き着いた答えは一つ。「その『何か』を知るには自分の目で見てみるしかない。」
アフリカ大陸のよく分からない国を訪れるには十分過ぎる理由である。8年間燻り続けたその想いは大学生活の最後になってようやく実ることとなった。

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東欧-欧州横断を経てスーダンへ。最高気温10度の世界から、一気に最高気温40度の世界へ。期待と幾許かの不安が強まってくるのを感じる。

「紛争」「危険」「治安が悪い」「世界唯一の国連から逮捕状を出された大統領」「イスラム教」「アラブ人」「黒人」「発展途上国」「貧困」「水が汚なそう」「毎日が豆のスープ」「砂漠」….

これらは、私がスーダンに対して勝手に抱いていたイメージである。もちろん川原さんのお話を何度も聴いた上で、である。ポジティブなものよりネガティブなものの方が目立つことは否めない。
しかしながら、そこで私が見た風景、知り合った人たち、感じたことは、自分が想像していたものとは全く異なるものであった。

初めて訪れるアラブ系黒人社会。失礼ながら、やはり日本では馴染みのない黒人が多いことに少し戸惑ってしまうがそんな不安は一瞬で消え去ることになる。
シャイながらも、(アメリカ程にまでフレンドリーとはいかないが)珍しい東洋人を見かけては「ニイハオ!」と笑顔で叫んでくれるスーダン人。(「no, no! こんにちは!」と訂正すると日本人だと分かって喜んでくれる。)
好奇心旺盛に近付いてきてよく分からないアラビア語で話しかけてくれるこども達。
そして何より好きなのが、力強い全力の握手で締めるスーダン流の挨拶である。国を訪れるとき、その国の印象として私の中で一番残るものは「人」であり、これまで訪れた20ヶ国の中でNo.1はこのスーダンであった。

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話を冒頭に戻す。
スーダンに残っていて、日本が失ってしまったその『何か』とはいったい何なのであろうか。
私が今回経験したのは、主に首都の一部の生活である。ロシナンテスが以前活動していたような村での生活ではない。それでも、その『何か』に触れる機会は多分にあったと思う。

敬虔なる祈り、夜明け前に響き渡るコーランの声、スーフィーダンス、踊りとほとばしる熱気と一体感、生きているという実感、満点の星空、初めて見る天の河、地平線に沈む夕日、そしてまた地平線より昇ってくる朝陽、地平線の彼方まで広がる砂漠、人々の生活を支えるナイル川、人と人とのつながり、、、

その中で感じた問いがある。
「生きる」ということは何なのか、過酷な環境の中で何のために「生きる」のか、「生きる」上で本当に大切なものは何なのかーー

これらの問いの答えこそが、求めていた『何か』なのではないかと思う。この『何か』を一口にコトバで表すことは容易ではない。

日本などのモノに満ち足りた先進的社会に不可欠なもの、それはシステムである。システムは人々の生活をより効率よくする一方で、他者との関わりなしに生きていくことをある程度可能にしてしまう。しかしながらその一方で失われてしまうのは人と人とのつながり、コミュニティである。不便なものの中だからこそ生まれてくる会話やつながりを、システムは不要としてしまう。
貧富に関係なく、人が人として生きていく中で不必要なものを捨象していった先に残るもの、私たちの尺度での「貧しい」中でもモノやカネ以上に大切なもの。
その『何か』とは地域や宗教という共通の価値観や、音楽や踊りによる連体感から生まれるつながりと喜び、生きる楽しみなのではないだろうか。

(もちろん今回私が体験したことが、スーダン全てで当てはまるわけではない。良い面もあれば悪い面もあるし、多少バイアスがかかっている部分もあるかと思う。現に賄賂を求める腐敗した警察官のために、明確な理由もなく検問を潜れず200kmの道のりを引き返すはめになったこともあった。)

蛇足であることを承知しながらも、感じたことをもう一つ記しておきたい。
歴史は見る視点を変えることで、また違った様相を映し出す。世界の歴史は勝者の歴史であって、敗者の歴史とは言い難い面があることもまた一つの事実である。
現在流れるニュースや記事も、どの立場から書かれたか、どの正義から書かれたか、誰にとってどのような印象を与えたいかによって、同じ事実でもまた違った様相を映し出す。我々のみる世界の情報が正しいという保証などどこにもない。 ありのままの姿を見るためには、自身の目で確かめるしかない。

今回のスーダン9日間では、自分が想像していたよりも遥かに多くの現実を見せていただいた。しかしながら、見ることのできなかった部分も多分にある。近い将来、私はまたこの地に戻ってくるだろう。短期間か、それとも中長期間か分からない。分かっていることは「必ずや」戻ってくるということである。

自分の知らないものを「分からない」と言って、流れてくるTVや新聞の記事を妄信的に信じて怖がるのは簡単である。ただ、その「分からない」ものにこそ、自身の目で見る価値があるのだと思うし、その必要があるのだと思う。世界から「テロ支援国家」と指定されているその国の現実を、是非自分の目で見てみていただきたいと思う。
最後になりますが、今回旅行の手配をしていただいた「むとうざい」の方々、色々お話を聞かせて下さったスーダン・ロシナンテススタッフの皆様、そして何よりも今回のスーダン旅行を実現させて下さった川原さん、本当にお世話になりました。 ありがとうございました。

スーダンで出逢ったすべての人達に感謝を込めて。
古賀翔馬